我儘な餓鬼一匹

社会不適合者は、この世をどうやって生きていけばいいのだろう。
社会不適合、というか、社会に適応しようとしない人間は。
溶け込めない人間は生きていくことが出来ないのだから、やはり死ぬしかないのだろうか。
飽くまでも物事の美しさに拘る人間は、ことばや思考や、あらゆる身の回りの存在にまで自分の思い通りにしようとする。
その中で、最も忌まわしいものが「生活」というもの。
たとえどんなに美しい芸術品であっても、ひとたび生活が絡むとただの俗物に成り下がる。
確かに生活の中にその魅力を見出すことは出来るだろうが、求めているのはそんなものじゃない。
食べる、汚れる、排泄する。
見苦しい。吐き気がする。
最低な不快感に襲われ、果てしなく嫌悪する。
生きていけない人間は堕落するしかないのかもしれないが、生活を考慮すると一瞬で美しさが失われる。みすぼらしくなる。
たとえ堕ちるときでも、美しくありたい。美しいものに囲まれていたい。
どうして、美しいことばだけを並べて生きていけないのだろうか。
散文なんて要らない。
幻想的なことば並べさえあればそれでいい。
ストーリーがただの一言に凝縮される簡潔さ。美しさ。
それがどうして、生活の上で有意義にならないのだろうか。
生きたくないわけじゃない。
ただ、混沌とした、手垢にまみれた生活が気持ち悪いだけだ。
どうすれば払底できるのだろう。
この悪食にも似た世界で、存在はどうやって満たされることが出来るだろう。
塵屑のような狭い部屋で、どうやってカタルシスを得ることが出来よう。
生は穢れている。
けれど死すらもこの世界では浄化されない。
そんな中途半端な世界で生きる、浮遊感をどうやって撫で付けられるのか。
俺は、美しさを物語の中でしか見つけたことがない。
浮世離れした、現実的な美しさなんて存在するのだろうか。
矛盾を、どこで解消できるだろうか。
それとも、今苦しんで耐えておけば、そのうちどうでもよくなっていくのだろうか。
生きる経験の極めて浅い俺にはまったく答えが出てこない。
生活感なんて糞食らえだ。
俺は、生活のない生活をしたいんだ。
この気違いじみた矛盾を、どうやったら癒せるんだ。
煙草臭い毛布も、毛玉のついたパーカーも、くしゃくしゃの髪も、転がるダンボールも、何もかもが煩わしく、汚らわしい。
穢れたものは、なにもかも消えてなくなってしまえ。
捨てられない思い出の品も、ただの塵だ。
大切なものなんてくだらない。
そのくだらないものを処分できない腹立たしさが、不快だ。
俺は、残された道なんか通りたくない。
整理整頓された、ぴかぴかの舗装道路を歩きたい。
そのためには、なにをすりゃいいんだ?
答えが簡単に見つからない。
苛立たしい。
もし神がいるのならば、もっと美しいレールを俺がしけるように配慮しておいてほしかった。
一枚のチラシの裏に描く、幻想的で許された世界。
そんな夢物語を夢みながら、今日もセブンスターに火を点ける。
隣の部屋の奴、真夜中にテレビの音がでかくてうるせえんだよ。
死ね。